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トピックス(独り言)

 

うさぎ

歯科における自然治癒力

最近医学界や健康を論ずる方々の間で『癒し』や『自然治癒』という言葉が脚光を浴びております。
さて、歯は硬組織であるという宿命を背負っています。 一度虫歯になったり、歯を抜いてしまうと、それから一生懸命歯磨きをしようと、どんなに『食』に気を使おうと、真面目な生活をしようと、歯医者さんでそれなりに治療をしなければ『自然治癒』で治るという事は絶対有り得ないのです。 勿論『歯槽膿漏』の場合、糖尿病などの抵抗力低下を招く疾患を治し、体質改善し抵抗力のある健康な体にする事によって『自然治癒』も期待できますが、原因である歯石は、歯科医院で除去しなければいけません。
即ち、歯科には『自然治癒』は存在しないのです。
とは言うものの、本当に『自然治癒』能力は働いていないのでしょうか。
とんでもない事ですが、『歯ぎしり』や『出っ歯』一部の『歯槽膿漏』などは、人間における『自然治癒』の悲しい一面だと認識しています。
大変疑問を持たれる方が殆どだと思います。 それでは何に対する『自然治癒』なのかということです。 それは頭痛や肩凝り耳鳴りめまい、その他の『不定愁訴』に対してです。
歯が破壊される代償で、『不定愁訴』が軽減されるのです。 悲しい事ですが。
『歯ぎしり』や『出っ歯』、一部の『歯槽膿漏』などの事は、『癖』の項で述べました。 つまり、『癖』はその人がその『癖』をする事が生理的に肉体的にあるいは精神的に無意識的に『したいからする』のであって、そうすることがその人にとって無意識的に『快適だからする』と確信しております。
つまり、無意識に『快適』を求めて、人間は意識的に色んな治療法を試み、無意識的に『健康の秩序』を取り戻す方向に歩いて行っているのです。
写真のような患者さんの殆どに、 『以前は肩凝りが、ひどかったでしょう?』と聴くと皆さん『そうです』と答えられます。 さらに『今は、肩凝りはそんなにひどく無いでしょう?』と聴くと『そういえば、いつの間にか気にならなくなったね。 』と言われます。
勿論、色んな努力をして肩凝りや不定愁訴を解消された方も多くおられると思いますが、それと平行して『自然治癒』の一環として『歯の破壊』が起きていたのです。
『歯の破壊』を前提とした『自然治癒』が、真の意味での『自然治癒』とは言えないかも知れませんが、結果的には『自然治癒』の一つと考えています。

たかが『かみ合わせ』されど『かみ合わせ』

『かみ合わせ』を治療して幸せになろう!
と掛け声をかけて皆さんに満足が出来るように頑張ってはいるものの、どうしても1割弱の患者さんが、なかなか満足のいく治療効果が出ないのが現実です。
何故だろう、何故だろうと、省みながら色々の事を追求してきました。
『一般医科』は勿論、『整体』『気功』『カイロプラクティック』『心霊治療』その他色々な民間治療などの代替治療にも顔を突っ込んでもみました。
追求すればするほど『人間』の不思議さと驚異に、感激あり、たまには落胆ありの充実した毎日を過ごしております。
そして、ふと振り返えると『かみ合わせ』治療とは何だろうと、思う事が有ります。
かみ合わせ治療を始めた頃、どんどん患者さんが治っていくので、『どんな患者さんでも治してみせれる』と思っていました。 しかし、患者さんがどんどん増えるにしたがって良い方向に行かない患者さんが少しずつ出てくるのです。
『はたえ式かみ合わせ治療法』でどんな病気でも治せます、と、断言したいのですがそこまで人間は甘くないようです。
『かみ合わせ不良』は不定愁訴の一つの重要な要因では有るけれど、全てではない事を思い知らされます。 しかし、たかが『かみ合わせ』されど『かみ合わせ』なのです。
今現在、どんな治療法も、不定愁訴を訴える患者さんに『完璧』『完全』な治療法は有りませんでした。 同様に『かみ合わせ』治療も『完璧』『完全』では有りません。
不定愁訴を訴える患者さんの症状は、『かみ合わせ不良』だけからでなく、『心』からだけでなく、今の生活習慣からだけでもなく、生まれた時から、いえその方がお母さんのお腹の中に一つの生命として『命』を獲得した時からの小さな積み重ねの結果が今、色んな形で表現されてきているのです。
その色々な要素の中で『かみ合わせ不良』も少なからず重要な役割を演じているのです。
『健全な心が宿る、健康な体造り』の何かのお役に立てればと思い、充実した楽しい毎日を過ごしております。

なかなか満足のいく治療効果が出ない患者さんを、色々な医療機関に紹介しても

『歯医者よしっかりしろ!!!』

私を含めて今の時代に『しっかり』している『人間』がどれくらいいるでしょう。
そして私を含めて歯科医師として『しっかり』としている歯科医師はどれくらいいるでしょう?
私の事をさておき言わせてもらえば、『まだまだの歯科医師』が多すぎると思います。
あくまでも、私の事を『さておいて』の話です。
『しっかり』して来るという事は、『成長』するという事だと思います。 私もいつも『しっかり』しようと思っています。 そして少なくとも、『昨日』より『一年前』より、そして『十年前』より確実に『成長』しているはずです。 が、私が思っている『成長』がほかの人から見れば良い意味でも、悪い意味でも、単なる『変化』なのかも知れません。
そしてここで言う『しっかり』とか『成長』とかは、どの視点から眺めるかという問題が大きなウエイトをしめています。
生まれたての赤ちゃんから見ると、ある程度の大人は『しっかり』おり『成長』しています。 ただ『赤ちゃんから見たら』なんてへ理屈を考える方は、きっと淋しい方でしょうね。
そういう意味で『しっかり』とか『成長』とかは、その人のまわりの仲間たちや、時代、社会環境による『相対的価値観』によると思います。
ここで本題に戻り、あえて『まだまだの歯科医師』が多すぎると言わせてもらいます。

歯科医師が変われば 『はたえ歯科医院は、学校です。』

私は『歯科医師が変われば、地域が変わる。 地域が変われば、日本が変わる。 日本が変われば、世界が変わる。 』と思い、自分自身にも他の方々にも言い続けています。
というのは、今、日本には・・人の日本歯科医師会会員がおりそれに非会員もいます。
会員だけでも、・・人に一人の歯科医師がいる訳です。 これらの歯科医師が、地域のリーダーとなりお口の健康のお手伝いを通して『生きざま』を示して行けば良いと思います。 スタッフは勿論、チャンスが有れば患者さんの方にも『はたえ歯科医院は、学校です。』とお話しています。 スタッフの自律・自立と、毎日、何軒も歯科医院を通り過ぎてわざわざ『はたえ歯科医院』に来て下さる小さな子供さんから、お年寄りの方までお口の健康のお手伝いを通して何かを学んで行ってもらいたいと心がけております。
その過程の中で、私自身が、スタッフからや患者さんの皆さんから多くの『貴重な学び』を毎日頂いております。

歯科医師の役割として、『お口の健康を高め維持する』ことが基本中の基本です。 どんなに口で偉い事を言っていても、患者さんのお口の中にバランスが取れた最適な補綴物(銀歯や入れ歯)を入れる事が出来、患者さんの歯ぐき治療とメインテナンスが出来て始めて普通の歯科医師なのです。 それをちゃんと出来ずに、口ばかり達者な歯科医師は歯科医師とは言えず、そのような歯科医師は、何もしない人よりも悪い存在となっています。
患者さんに優しいだけ、治療が早いだけでろくに歯の根の治療もせず、ろくな補綴物も入れていない歯科医師もかなり多くいる事はとても残念です。
そういう歯科医師に限ってパフォーマンスが上手で、また上手でなければやっていけないのです。
技術が上手で、痛くなくて、優しくて、早い歯科医師が本当に多くなって欲しいものです。
今まで述べてきた事は『歯科医師』の最低条件です。 しかし私たち『歯科医師』は歯科医師である前に『人間』であるはずです。
ここで『人間とは?』なんて壮大なテーマは論じないまでも、歯科医師は現在歯科業界が厳しい状況にあると言われていても、かなり恵まれた環境にあると思っています。
人間には上下というものはありませんが、『役割』というか『段階』というものがあると思います。
私は歯科医師という段階にある人は、環境的にかなりの重要な『役割』を担える立場であり、担わなければいけない立場の人間だと確信しております。
その『役割』は各々の立場や考え方でいろいろあると思います。 あまり大きく出て、何でもやってやろうと思うと何も出来なくなるので、出来る事からまず始めたら良いかと思います。 今、流行の『軽はずみなポジティブシンキング』で自分は何でも出来るなんて考えると無理す過ぎて結局つぶれてしまうのが落ちです。 人間にはどうしようもない生まれ持っての『才能や素質』があり、そして何よりも『限られた時間』という物があります。
じっくり考えてまず出来る事からどんどんやって行って、レベルを高いものにして行けばいいと思います。

歯科医師がいらない世の中

私の夢は『歯科医師がいらない世の中』です。
私は、一度治療を終了して定期検診以外で、どこかの歯や歯ぐきが悪くなって患者さんが再度来院される時ほどつらいものは有りません。 自分やスタッフの指導力のなさに情けない気持ちでいっぱいになります。 世の中そんなに甘くは有りませんが、いつの日にか二度と悪くならない治療や指導をしていきたいと思います。
そして多くの歯科医師がそれを目指してそれぞれが実現していけば、必ず『歯科医師がいらない世の中』がやって来ます。 それが10年後なのか30年後なのか、あるいは100年後なのかは解りませんが必ず来ると信じています。
『歯科医師がいらない世の中』が来ると『医師がいらない世の中』が必ず来ると思います。
勿論、外傷などで緊急の医療はいつの世も必要と思いますが、その他のいろいろな病気は必ず無くなると信じています。
なぜなら今すぐにでも『歯科医師がしっかりすれば』、生活習慣病と言われている様々な病気が少なくとも半減以上はすると確信しています。 もしかすると9割以上無くなると思っています。
『医食同源』と言う言葉が表すように『病気と食』は切っても切れない関係が有るのです。
私たち歯科医師は、噛むことからさらに食事のあり方のアドバイスなどもどんどんしていきさらに私が述べてきたいわゆる『顎関節症』の治療をすべての歯科医師がマスターすればほとんどの病気は無くなると思っています。
言い過ぎかもしれませんが本当にそう信じています。
現代医療の発達によりかなりの病気が治療可能になってきました。 しかし最近では色んな環境の変化で『心』の問題や『心』の問題が原因になって起きる病気がクローズアップされて来ました。 その問題も歯科医師が『しっかりして』行動し率先して地域を良い環境に
創造していけば無くなると確信しています。

迷える患者さん

今の医療の現状を考え、一言で言うと『白衣を着た公共事業』だと思います。
そして歯科医師や医師は『半官半民の公務員』だと思います。
医療費は27兆に膨れ上がり、来るべき老人社会に向かって医療保険制度も大きく変わろうとしているし、変わらざるを得ない状況となっております。
そこで迷惑を受けるのは、本当に悩んでいる患者さんになるのです。
医療保険制度の変革も問題なのですが、ほかの問題としては『迷える患者さん』をターゲットにした『心無い』健康ビジネスの問題です。
健康ブームにあやかって、色んな高価な健康食品や健康器具が飛び交っております。 さらに気功や瞑想、催眠やヨガやインド医学などありとあらゆる方法が飛び交っております。 その究極がいかがわしい『宗教』に終わるのかも知れません。
これらの手段や方法は、売る人や指導する人がどんな人かによって、『本物』であったり『偽者』で有ったりします。 私も多くの心有る『本物』を知っているし、多くのお金に目が眩んだ『偽者』も知っております。
冷静に考えると『本物、偽者』はすぐ解るのに、『迷える患者さん』は『藁をもつかむ』状態に陥っており正しい判断が出来ないままに流されている方が大勢いらっしゃいます。
『迷える患者さん』、『悩める患者さん』をだしにして儲けを考える、心無いモラルが無い業者が許せません。

出逢い

『めまい』との出逢い
私は、人生は色々な人との出逢い、色々な出来事との出逢い、色々な場所や環境との出逢いだと思っています。 そしてそれをその人がどう受け止めてどのように学び合うかだと確信しております。 つまりその人の心が人生を良い物にも、悪い物にも創って行くと確信しております。
『かみ合わせ不良』の治療をし始めたのは、『はじめに』の項で述べたように、私自身が『かみ合わせ不良』患者だったからです。
私にとって『めまい』との出逢いが大きなチャンスになりました。
『めまい』で苦しんで、初めて『めまい』で苦しんでいる患者さんの気持ちや心の状態が本当に理解でき実感出来るようになりました。 その気持ちや心の状態は、『めまい』で苦しむ患者さんだけでなく、その他の様々な病気で苦しみ悩んでいる患者さんに共通する事も実感しました。 病気の違いはあれ、気持ちや心が実感でき、共感が出来ると、歯科医師としてだけでなく患者として人間として、多くの患者さんや出逢う方々に優しく触れ合う事が出来るようになりました。
さらに、『めまい』で苦しんで『トッチャン』こと『鶴見先生』との素晴らしい出逢いをさせて頂きました。 この『トッチャン』との出逢いが無かったら今こうして健康に明るく楽しく、また本を出し、皆さんの前で講演をさせて頂くような事は絶対有り得ませんでした。
『トッチャン』は、今きっと天国で『かみ合わせ不良』の皆さんの治療を、毎日大忙しでバタバタされている事でしょう。 そんな『トッチャン』です。
天国に行かれる直前まで、私たち『ヤンチャ息子』の為に、そして私たち『ヤンチャ息子』を通して多くの『かみ合わせ不良』患者の為に英語の論文を、辞書を片手に訳して頂きました。 『トッチャン』の『生きざま』に多くの事を学ばせて頂きました。 そして天国に行かれた今でも『トッチャン』からの指導が送られているようなそんな気がします。
私たち『ヤンチャ息子』の心の中には元気な『トッチャン』がいつも側に居てくれるのです。 人間が天国に行っても永遠の『命』は、今も『生き』続けています。

友人の自殺との出逢い

『かみ合わせ不良』患者さんと、多く接していると、症状が重くなるほど自殺を考えておられます。 そういう意味で、自殺願望の患者さんのカウンセリングは、かなり体験していたのですが 、患者さんではなく、相談にのっていた友人が突然自殺をしてしまいました。
本当にショックでした。
ある日曜の朝早くに、電話が鳴ってとると、友人のお母さんだったのです。 何かあったらすぐに電話を下さいと前もって言っていましたので、一瞬ドキッとしましたがまさかと思いお話を聴いていると、
『先生、朝早くすみません。 』と言われたとたん、『息子が・・・・・・・』。
今思い出しても悲しい声にならない声が頭の中に響いてきます。
自殺は絶対いけません。
死ぬ気になれば。 どんな事でも出来るはずです。
それをしないで、責任を取らないで、自分だけ『先に行く』のは、絶対卑怯です。

自殺は多くの周りの人に、どうしようもない課題を投げかけて行きます。
交通事故や、事件による殺人は、本人の不注意や、加害者の不注意、また、どうしようもなかった巡り合わせも関係してきますが、自殺は、本人の意志と、周りの人の援助でかなりの場合防げると思います。 つまり、周りの人が、本人の自殺の後に多くの課題、反省点を突きつけられる訳です。
『あの時一緒にいたら』、『言葉を掛けていたら』、『幼児期にもっとしかり教育していたら』など、数え上げれば、きりが無いくらいどんどん出てきます。

冷静になった今、振り替えると、自殺は多くの学びを私達にくれました。
学びを与えてくれる為に、自殺をしてくれたとは思いませんが、不幸な出来事にこそ、多くの学びを与えてくれて、二度と同じ不幸な出来事を起こさないようにするのが、自殺した本人への最高のご供養だと信じております。

今回の自殺での学びや課題、そして二度とこの不幸を起こさない答えは、決して簡単に出ないとは思います。 ただ一言でと言われたら
『今、どれだけ本人の為に強い信念をもって、本気で関わりを持つか』にかかって来ると思います。
幼児期や学童期の事や、過去の事は変える事が出来ない『ただの過去の事』なのです。
勿論、きちっとした整理は問題解決の為に非常に大切ですが、今は、その反省に立って、これから先の事を見つめて、なおかつ、どれだけ本人の為に強い信念を持って、本気で関われるかと言う事になってきます。
その方法として、自分の職業や地位さえも捨てて、立ち向かわなければならない事態も当然起きて来ると思います。
生半可な気持ちで関わって治るような患者は、何もしなくても、治って行く患者で、自殺まで考える患者は、本気で取り組むしか無いと思います。

自殺者数が、年間25000人を超えようとしている現代社会で、何が問題なのか、課題なのかは数限りなく有ります。 そういう時代の中で自分そして家族、更に友人などと良い関係を持ってそれぞれで守って行くしかないような気がします。

博多どんたくでの自閉症小学生との出逢い

5月は、博多はどんたくで賑わう。 42年生きてきて、始めてどんたくに参加した。
その日の朝から気乗りがせずに、集合場所に行っても、何時に抜け出そうかと、雰囲気を伺っていました。 ところが、スタッフから渡されたメンバー表を見ると、愕然としました。 私が、あるグループの責任者になっているのです。 『あいたー。 こいつは、抜け出せん。 』と、覚悟せざるを得ませんでした。 スタッフの知恵の方が、上手だったと言う事です。

それでも、やっぱりいやでした。
そもそも、どんたくの存在自体に大変否定的であった、私が、いきなりメーキングをして人前に出るなんて、自分自身不思議でした。
参加しようと思ったきっかけは、3月に聴いた、昇 幹男先生の講演を聴いた事でした。
昇先生は、自らチンドンヤになって、大阪のパレードを練り歩くそうです。
先生の体験に近い事をしようと決めていたので、今回のどんたく参加になりました。

今回の参加で、多くの貴重な体験と気付きをさせて頂きました。
私自身は、どんたくは嫌いだったのですが、多くのどんたくファンが大勢いる事に、ビックリしました。

患者さんから教えて頂いた事

毎日多くの患者さんに来院して頂いて、多くの事を学ばせて頂いております。
生後すぐの赤ちゃんや元気良い子供たち、たまには、泣きわめいててこずらせる子供たち。
そんな子供たちが、にこっと笑って治療を終わって行くと、充実感を味合わせてもらいます。 大人でも、お口の中がひどい患者さんもどんどん良くなって、生き生きとして治療を終わっていく時は格別な感動をいつも分けてもらっております。
いつも簡単に治療が終わるわけでは無く、私だけの力でもなく、はたえ歯科医院の素晴らしいスタッフと患者さん自身の努力の結果で素晴らしい治療が出来ています。
歯科医院が過剰時代を迎え、来院して頂く患者さんは、何件もの歯科医院を通りこえて来て頂いております。
『かみ合わせ不良』の治療もしているからでしょう、遠くは関東の方や九州一円からおいで頂いております。
そういう患者さん方の信頼にこたえるためにも、スタッフは精神誠意患者さんに接してくれていつも感謝しております。
『かみ合わせ不良』の患者さんには特に多くの事を学ばせて頂いております。
治療をして症状が無くなった時、患者さんの素晴らしい笑顔に一緒に感動し、症状がなかなか取れない時の悔しさと私自身の力の無さに反省させられます。 さらに色んな原因を追求していく時に、現代社会、現代医療、現代文明の素晴らしい長所と、根深い欠点を思い知らされます。
私の病院では、『かみ合わせ不良』患者さんがよく泣かれます。 名誉の為に言っておきますが、私が泣かせているわけでは有りません。
まず初診の時、色んな事をお聴きします。 その時に『かみ合わせ不良』で苦しんでいる色んな悩みや苦労を話されながら泣かれる事がたびたび有ります。 それは『かみ合わせ不良』で苦しんでみないと解りません。
悩んで落ち込んでいる患者さんに、『プラス思考で行こう』なんて解りきったアドバイスは無駄な事が多いです。 『プラス思考で行こう』なんてアドバイスはもう既に言われ続けて来られた患者さんばかりです。
どんなアドバイスよりも、患者さんの今の症状を少しでも軽くして上げられたら、どんどん良い方向に駆け上って行きます。
軽くなった事で、患者さんに希望が戻り、私との信頼関係が芽生え、初めて色んなアドバイスが患者さんの心の中に染込んで行けるのです。

子供の治療  お母さんお父さんへ

『恐い』という思考は、人間が自分の身を守るためには大切な行動です。 しかし、『恐い』という行動は、人間の本能では有りません。
歯科医院に来てくれる多くの子供たちに、沢山の事を教えてもらいます。
平気で治療を受ける子供、泣きわめいて治療を受けさせない子供、様々な子供たちが来てくれます。 前述したように、『はたえ歯科医院は学校です』という理念で、来院してくれる、皆さんや私たちスタッフも含めて『学びの場』として毎日頑張っております。
そういう意味で、泣きわめいて治療を受けさせない子供が来院すると、とても大変ですが逆に大変多くの事を学ばせてもらいます。
結論から言うと、どんなに泣きわめいて治療を受けさせない子供でも、一生懸命に治療すると必ずおりこうさんに治療を受ける事が出来るようになります。
歯科治療が好きになる子供や、歯科治療は好きではないけれど、ある意味納得して受けるようになってくれます。 どんどん子供が自立できるようになってきます。 そうなってくれると、一生懸命に治療して良かったとスタッフ皆で喜んでいます。
泣きわめいて治療を受けさせない原因は、『恐い』と思い込ませているからです。
その『恐い』は誰が思い込ませたのでしょう。
勿論、歯科医師自身が、治療の時に痛くして『恐い』と思わせたのも原因の一つでしょう。 しかし、さらに輪をかけてお父さんやお母さんが子供に『恐い』と思い込ませている方が多くいらっしゃいます。
子供を叱る時に『歯医者さんで注射してもらうからね』などと、脅し文句を付きつける方がいらっしゃいます。 子供の心に、どんどん『恐い』という思いを植え付けておられるのです。 本当に困った事です。 そういう風に洗脳されて育ってきて、歯科治療が恐くない訳が有りません。 言葉には、計り知れないパワーが有る事を思い知らされます。

もう一つの泣きわめいて治療を受けさせない原因は、御両親が子供を非常に甘やかして育てられていることです。 御両親は『愛情』のつもりでも、度を越すと『甘やかし』となっているのを気付いておられないのです。 そういう風に育った子供は『恐い』という思いと『駄々をこねる』という行動が一緒になっているのです。 そういう子供は本当に手間がかかります。
私の歯科医院では、奥に以前は院長室だった部屋に診療台を設置して個室になるようにしています。 泣く声が歯科医院中に広がらないようにするためです。 良い子供でも、やはり歯科医院に来ると、とても緊張しております。 そういう子供の中に一人でも泣く子供が入ると、連鎖反応的に良い子供まで巻き込まれて泣いてしまうのです。 そうなると歯科医院中、子供の泣き声でいっぱいになってしまいます。 それを防ぐために、個室になって声があまり響かないようにしたのです。
泣きわめいて治療を受けさせない子供は、まずその部屋に導入して治療を開始します。
その部屋に入って私たちと悪戦苦闘をするのですが、殆どの子供はだいたい15分から20分も有ればある程度おとなしくなってくれます。 今までで最高1日2時間ぐらいで2日かかった子供もいます。 子供との根くらべです。 根負けしたら絶対言う事を聴いてくれません。 子供に私の事やスタッフの事を『我侭を言っても聴いてくれない人』と思わせたらこっちの物です。 ある時点から本当に素直になってくれるポイントが訪れるのです。
そうは言うものの、治療に入るとまた元に戻る事が殆どです。 こちらも根気強くやりつづけるだけです。 しかし殆どの子供はちゃんと治療を受ける事が必ず出来るようになります。
何故そこまで出来るかというと、『治療をする事がこの子供にとって、より良い』という『信念』と、『治療を通して更に自立して欲しい』という『思いと、祈り』がスタッフ皆に有るからです。
どんな子供も、ちゃんと教育すれば何でも出来る事を思い知らされます。
治療が全て終わって、お互いに満足してお別れする時はとても嬉しい瞬間です。

優治療

私は『優治療』を心がけています。 つまり『やさしい』、『すぐれた』治療です。
多くの患者さんの治療をさせて頂いて、『自然治癒』や『癒し』『ヒーリング』など色いろな事を学ばせて頂いております。
学ばせて頂いている過程で、いつも出てくる言葉が『愛』です。 『愛をもって、患者さんに接しましょう。 』という様な言葉がいつも頭に有りました。
この『愛』は治療だけでなく、人間社会の中で人間同士が『生きる』という上で、基本となっております。
しかし私にとって『愛』という言葉が出てくるたびに、とても重荷になっていたのです。
煩悩の固まりの私は、とても『愛』を語れる人間では無いからです。 そして私より語る資格が無さそうな人が、のうのうと『愛』を語っているので大変疑問を感じていました。
このようになんとなくモヤモヤしながら『生きて』いるある時、『愛』と『憂』が重なりさらに『優』が重なり始めたのです。
私は、子供の頃からいつの間にか『優』という言葉が好きになっていました。 というのは、小学校の頃、『優子』さんというかわいい同級生に引かれていた事が大きな原因になっていました。 それはどうでも良い事ですが、とにかく『優』が元々好きな言葉でした。
『優』、つまり『やさしい』と共に、『すぐれた』という反対とも取れる意味を含み、『憂』という少し淋しい響きをも含んだとても不思議な文字なのです。
『人』と『愛』(=『憂』)を並べると『優』になり、まさに今の私にとっての『愛』は『優』だと確信しました。 勿論、『人』が付かない『愛』の方が更に高い物なのでしょうが、今の私のレベルでは『優』がとてもフィツトしているようです。
いつの日か、『愛』を実践できる人間になれれば最高ですね。
ホリステイック

ホリステイックな観かた、看かた、診かた

ホリステイック『holistic』とは、ギリシャ語の『holos』(全体)を語源とします。 つまり、『全体的』『全体論的』などと訳されています。
いろんな物事を、部分的に、観念的に、ある種の偏見を持って観るのではなく、全体的に、公平に、ある意味客観的に観る事です。
医学や医療において、近代西洋医学が人間やその病気を『機械論的』『還元論的』に部分に注目し過ぎ、多くの問題が提示され、心や環境など『東洋医学的』な考え方を含めた、全体的に、つまりホリスティックに観るようになってきております。
私流に『ホリスティックに観る』を解釈すると、いろんな物事を、部分的に、観念的に、ある種の偏見を持ってかつ、全体的に、公平に、ある意味客観的に観る事、つまり
『いい かげんに観る』という事になります。
医学、医療でいえば、『西洋医学』と『東洋医学』の良いとこ取りという事になります。
とても勝手な意見では有りますが、臨機応変に、その場、その患者さんにより良い選択をしていけば良い事なのです。
『医学』は確かに科学として、学問で無ければなりません。 しかし『医療』は、苦しんでいる患者さんを目の前にした『現実の現場』なのです。
理論、理屈、真理を大上段に振りかざして通すよりも、現実的に患者さんの実状に合った色々な処置をしていかなければいけないのです。
歯科でいえば、補綴する金属は当然、金や白金加金の貴金属の方が生体にとって良い事は解りきっているのですが、患者さんの『思い』や『生き方』『経済状態』などのいろいろな問題を考慮に入れて、大きな『間違い』がない『より良い』治療を心がけていかなければいけないのです。
今まで殆ど歯を磨いた事がない人に『1日4回、10分以上丁寧に磨きなさい』といきなり指導してもついてこれないのと一緒です。
はたえ歯科医院では、患者さんに合わせて、『前回よりも今回がより良い状態に、そして次回がさらに良い方向に』とスタッフ皆で頑張っております。
良い治療とは、間口が出来るだけ広くどんな人でも受ける事が出来るような治療をいうと思います。
出来るだけ簡単で、お互いが納得する費用でなければなりません。 それぞれの患者さんに合った色々な段階も、治療者として持っておかなければいけないのです。
その為に私は、色々な治療法を学び、色々な治療法で治療されている先生と親しくさせて頂いており、色々な患者さんの要望に対応出来るように心がけております。
患者さんの治癒を出来るだけサポートするには、私だけの力ではどうしようもない患者さんがたまにいらっしゃいます。 そのような患者さんの大変お役に立てていると思います。

歯科と一般医科

西洋医学の端くれの歯科医師は、まだまだ一般的には、『職人』的な見方をされています。
実際、『歯』という形ある物を、患者さんのお口の中に銀歯を入れる事が、そもそもの歯科医師の大きな役割でした。 それは今でも歯科医師の大切な役割で有ります。 さらに、『歯槽膿漏』の治療や『矯正治療』等が行われるようになり、『上顎ドウ炎』や『口腔癌』等の一般医科と同じ領域を治療ようになりました。
さらに今日では厚生省のプロジェクトとして、『かみ合わせ』と全身の関係の研究がスタートされました。 私としては、10年も前から『かみ合わせ治療』をやっていましたから、厚生省が乗り出すのは、大変遅れたと思っております。
ちなみに、アメリカでの日本の歯科医師会に当たる、『A・D・A』では、『かみ合わせと全身の不定愁訴とは、関連はない』との公式見解が出されております。
とんでもない公式見解だとは思いますが、今のアメリカでは、仕方が無いかも知れません。 というのは、アメリカでは、弁護士さんが多くいて、訴訟社会が現実です。 もし『かみ合わせと不定愁訴が関連あり』と公式見解が出たらどれだけの訴訟が起こるか計り知れません。 私自身も『かみ合わせ』と不定愁訴は関連有りますが『かみ合わせ不良』だけが全てではないと何度も述べてきました。 しかし、訴訟を起こす側は、『かみ合わせ不良』だけを歯科医師の責任として戦ってくるはずです。
アメリカでは、どの医療機関もトラブルに対しての保険料がかなりの高額に達して、経営に大きな負担となっています。 そういう実状を抱えるアメリカでは仕方が無い見解なのかもしれません。
日本みたいに、うかつに謝ったり、自分の少しの非を認めると大変な事に発展しかねないアメリカは、良いのか悪いのか解りません。
しかし、日本みたいに、某証券会社や某銀行の社長や役員一同が、マスコミなどで深々と頭を下げて謝る事は世界では殆どしないのが常識です。 謝ったが最後、訴訟だらけだそうです。
日本みたいに形だけ謝って、心では何とも思っていないのも非常に遺憾ですが、謝ればすぐ訴訟という世界もなんとなく世知辛いような気がします。

???とかく歯科医師は、職人的要素が強いと考えられて来ました。
よく患者さんに、『先生は、手先が器用ですね。 元々器用だったのですか?』と聞かれます。 本当の事を言って、私は手先が器用でもないし、工作等の芸術的センスも全く有りません。 しかし、患者さんに満足して頂けるように、一生懸命努力し学んできました。 そしてこれからも学んで行きます。 その『気持ち』『心』が治療につながっているのではないかと思っています。 どんなに良い大学を卒業しても、どんなに手先が器用であっても、『心』が無いと、どんどん手を抜いて、大した治療をしていない歯科医師も沢山いる事も淋しい現実です。 どんなに不器用でも、一つの事を『心』を込めて手を抜かず、一生懸命学んで行けば、必ず上手な歯科医師になれるのです。
これからは、歯科も、一般医科の一部として大きな役割を果たす時代がやって来ました。
これまで述べてきたように、不定愁訴と大きく関係し、『食』という、人間の本能と深く関連し、強いては人間の健康を左右し、人生さえも左右する分野になっています。
そういう意味で、歯科医師も西洋医学の一員として、もっと学んで行かなければいけません。

西洋医学と東洋医学と人間医学

元来、『職人』として見られていた歯科医師が、『にわか西洋医師』として、西洋医学と東洋医学の問題を論じるというのは、ある意味不適当かも知れませんが、逆に素人から観た率直な見方も、なかなか味が有るかもしれません。
結局、『医学』とは何か、『医療』とは何か、『健康』とは何か、という問題に行き着いてしまうと思います。 更に進めると『幸せ』とは、そして、『人間』とは、という大きな問題にまで行き着いてしまうと思います。
『人間』とは等という大きな問題はさて置き、『医学』『医療』の問題を考えてみようと思います。
『医学』とは学問として、解っている範囲の中の『科学』として体系付けられなければいけないと思います。 ここで、解っている範囲の中の『科学』が、何処まで解っているのかという基本的なしかも、大きな問題が横たわっているのです。
『科学』は、日々進歩の段階に有ります。 という事は、昨日正しかった事が、今日は、とんでもない間違いになっているかもしれない危険性を含んでいる事なのです。
そういう『科学』の中での『医学』という物を、まず謙虚に認めて行かなければいけません。 そしてこの『医学』は最終的には、人間のより良い『健康』を追求し、さらに人間の
より『幸せ』に貢献しなければ意味が有りません。
あくまでも『健康』は、人間の『幸福』を掴むための、大切な一つの『手段』でしかないのです。 『健康』にばかり目が行って、過度に大切な時間をかけすぎたり、過度のお金をかけすぎて身動き取れなくなるのも、大変もったいないことです。

最近かなり改善してきましたが、とかく東洋医学の先生は、西洋医学を批判的に意見を言い、西洋医学の先生は東洋医学の先生を批判的に観ておられます。
医療の現場として、、患者さんを目の前にして、要らぬ対立は、患者さんにとって、大変迷惑な話です。 西洋医学で治癒可能な患者さん、東洋医学で治癒可能な患者さん、どちらも必要な患者さん、それぞれの患者さんに合った治療を、医師が真心と信念と謙虚さを以って進めていって欲しい物です。

『司馬 遼太郎』さんは、その著書『アメリカ素描』の中で次のように述べられています。
『文明とは、誰でも参加できる普遍性を持っている物である。 だが、文化とは不合理であり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、普遍性を持っていない物である。 』

ここで『文明』が『西洋医学』に、『文化』が『東洋医学』に置き換えて読んでみればぴったり合うような気がします。
不合理に出来ているこの世の中で、合理性を追求するという不合理が、色んな問題を引き起こすのでしょうが、この不合理もなかなか楽しい物です。

口害で世界が滅ぶ日

たいそうな題目が付いていますが、いつか人類は滅びる物だと思っています。
そして、この地球も遠いいつか無くなってしまうものだと思います。
そして、この宇宙もです。

こんな意見を述べると、皆さんから観ると、私をとても悲観論者の様に思われるかも知れませんが、これは事実だと思います。 かと言って、明日の事や、一年後の事を言っているのでは有りません。 しかし、50年後、100年後、あるいは1000年後はどうなっているかは、本当に判りません。
『死』を認めたがらない現代社会の中で生きてきていると、『人類滅亡』や『地球滅亡』等は、SF小説の中だけの事で、映画の世界の、娯楽の延長としか、感じていないかもしれません。 しかし、『かみ合わせ不良』の事を追求し、学んで来ると、最終的には『人間とは?』や『地球環境』の問題にたどり着いてしまうのです。
私は、現代社会に蔓延している、『軽はずみなポジティブシンキング  無責任な運命論』が、大嫌いです。
深く真剣に考えた後で、出来るだけ明るく前向きに生きれば良いのですが、軽はずみ過ぎるポジティブシンキング は世の中を悪くするばかりです。
この世の中、じっくり考えれば『宿命』や『運命』『つき』の部分も確かに有ります。 しかし、それにあえて目を向けないで『自分の周りに起きる事は自分の考え方や行動の結果』である、つまり『自分が源』という覚悟を決めて人生を切り開いていく方が、納得いく人生が送れると確信しています。
私は、『無神論者』ではなく、前にも述べましたが『神道』にご縁を頂いております。
まだまだ判らない、未知の領域や世界が有るのではないかと思っています。 しかし、『ヒト』として『人間』としてこの世に生まれてきた意味として、この世の現実で精一杯活躍する事が、『使命』ではないかと思います。 色々な宗教に顔を出して、素晴らしい方々と素晴らしいご縁を頂きましたが、そのような方は、皆さん現実社会で、これ以上無いほど頑張られておられます。
常に神頼みで、『主体性』が無い方は、いつも考え方や行動の何処かに『無責任な運命論』を引きずっておられます。 そして、すぐに『今の自分の状況は、悪い運命なのでじたばたしないで、じっとしておこう。 』、『この悪い状況は、大いなる存在(神様など)から自分に与えられた物であるから、このままあるがまま受け止めよう。 』などと考え、問題解決の為に一生懸命やっているつもりなのでしょうが、どこかに自分が引き起こした自覚に欠け、逃げ腰な行動になっています。
人間は計り知れないパワーを持っていると信じております。
スポーツ選手と関わっていると、多くの事を学ばせて頂いております。
まさに勝負の世界で『勝か、負けるか』の世界で、生物に置き換えると『生きるか、死ぬか』の世界とまったく同じなのです。
野球でいえば、9回裏の大逆転、ラグビーやサッカーでいえば、終了間際の大逆転だとか
人間は土壇場になった時の底力には、驚異的な物が有ります。
土壇場で勝利をつかめれば良いのですが、残念にもあと一歩のところで勝利を逃す事も多く有ります。 『なぜ最初からもっと・・』という後悔だけが残る事も多く有りました。
まさに今の地球は『土壇場』立たされている状況だと思います。
あと一歩の所で負けるよりも、今から全力を尽くして地球の未来に底力を見せようではありませんか。
手後れにならないうちに。

人間は、無駄をする動物

人間は無駄をする動物であり、その無駄が過剰な欲に操られ始めた事が、人類滅亡の可能性を高め、いまの最悪の地球環境を招いていると思います。

私も沢山の好ましくない無駄をしてきました。 そして今でもある程度、好ましくない無駄をしているでしょう。 今、思うのは、私が今までしてきた無駄は、何一つ無駄では無かった事です。 ただ、もっと早く今の様に、出来るだけ好ましくない無駄を、最小限にそして出来るだけ短時間で終わらせとけば良かっただろうにと、反省をしております。
しかし、多くの無駄をして来れたから、今の自分がここに存在していると思います。
最大の利点は、無駄をしている人の気持ちが十分判る事です。 無駄をした事が無い方には、何故そんなに無駄したいのか、しなければいけないのかが、本質的に理解出来てないと思います。 人間は『自分を理解して、認めてくれる人』にしか、なかなか心を開いてくれないのです。 真理だけを、大上段に振りかざして、対戦してくる人には、なかなか心の殻を開けないのです。 『自分を理解して、認めてくれる人』となるには、知識や理論ではなかなか身に付かないのです。 『百聞は、一見にしかず』という諺が有りますが、テレビや新聞等のマスコミが発達して、写真やテレビ画像で世界の色々な事は、『一見』する事が出来る時代なのですが、『一験』する事が出来てない時代だと思います。
一昔前は、『一見』、即ち、その場所、その人、その物の所に行って始めて『一見』出来るのであって、体験を伴っているので『一験』出来たのです。 現代風に変えると『百聞は一験にしかず』となる事でしょう。

『しあわせ』は『歯あわせ』から

『噛みあわせ』 『神 あわせ』

幸せは色々な要素が絡み合って生まれてくるものです。 その根本は、本人の価値感や物事をどのように捉えるかによります。 同じ10万のお金でも、ある人にとっては、た『たった10万しかない』と思うでしょうし、別の人にとっては『10万もある』と捉える人もいるでしょう。 世の中全ての物は、その物に価値が有るのではなく、受け止める人の『感じる』心がその物の価値を決定しているのです。

おしまいに

勝手な事を好き勝手に述べさせて頂きました。
ふと振り返ると、『私はこんな事を言うだけの人間か?』と自問自答を繰り返しています。
私の一部を知る人たちにとって、『たいそうな事を書く奴や』と責められるかも知れませんが、これも私の一面とご理解頂きたく思います。

この本を、何故書きたいと思ったかとを、じっくり考えてみると、『死』を意識し始めたからだと思います。
幸い祖父母の『死』以外、身内の『死』にはまだ直面しておりません。 祖父母の『死』も私が何も解らない小学生や中学生の時で、悲しかったのは実感しましたが、『死』それ自体に何も学んでいなかったのです。
それがお世話になった色々な方の『死』に直面し、特に『トッチャン』こと『鶴見先生』の『生きざま』と『死』に大きく学ばせて頂きました。
『人間はいつか、必ず死ぬ』という事を実感して、私に当てはめて考えるようになってきました。 そうすると『今』がとても大切になって来たのです。
今、自分に出来る事を真剣に考え、実行するように心がけるようになりました。

先ごろお亡くなりになられた『中川 米蔵』先生が『死』は恐くないとおしゃってました。
『肉体は滅んでも、魂は残り、言った言葉や、書いた文字は残って行きます。 』と言われていました。
最初から『生きた証』と思って書き始めた訳では有りませんが、今思うと『生きた証』となるかもしれませんね。
私は多くの皆様に、多くの事を学ばせて頂き、いつも受け身の一方通行で申し訳なく思っています。 今回の本が、皆様の健康や、生き方に少しでもお役に立ってくれれば最高に幸せです。
『トッチャン』も死ぬ寸前まで『学び』を続けておられました。
私も死ぬまで学び続けます。

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